今日は「京セラフィロソフィ」38項目の「大胆さと細心さをあわせもつ」について書きます。
稲盛さんはこう書いています。
「大胆さと細心さは相矛盾するものですが、この両極端をあわせもつことによって初めて完全な仕事が出来ます。
この両極端をあわせもつということは「中庸(ちゅうよう)」をいうのではありません。
ちょうど綾を織りなしている糸のような状態をいいます。
縦糸が大胆さなら横糸は細心さというように、相反するものが交互に出てきます。
大胆さによって仕事をダイナミックに進めることが出来ると同時に、細心さによって失敗を防ぐことが出来るのです。
大胆さと細心さを最初からあわせもつのは難しいことですが、仕事を通じて色々な場面で常に心がけることによって、この両極端を兼ね備えることが出来るようになるのです。」
「中庸」とは儒教の言葉で「偏らない心」「とらわれない心」のことです。
常に判断を求められる経営者は「真ん中」という訳にはいきません。
私は以前から常に「溢れるばかりの熱い情熱を持ちながら、時として冷徹な判断が出来る」経営者があるべき姿と思っていましたので、この稲盛さんの言葉に触れた時、得心しました。
また、「両極端」ということについて説明があります。
「この『両極端』とは、資本金以上の投資を決める大胆さと、わずかな額の投資でも逡巡し、考えに考えた後で結局行わないというような細心さだけではありません。
ものすごく情が深く、優しい人間性を持っていながら、時にはズバッと社員の首が切れるという冷酷さ、非情さということもあります。
大胆でなければならない時に大胆さを出す、細心でなければならない時に細心さを出すという具合に、それぞれの性質を状況に応じてうまく機能させる能力が無ければなりません。」
この両極端な状況で常に判断を求められるのが経営者です。
また「京セラフィロソフィ」の本の中には米国作家F・S・フィッツジェラルドの言葉が紹介されています。
「第一級の知性とは、両極端の考えを同時に持ち、かつ、それらを正常に機能させることのできる能力である。」
時々この「大胆さと細心さ」を間違えている人がいます。
よく似ていますが全く違う言葉として「放漫と小心」です。
それは無責任で、よく判断もせず博打みたいな投資をし、自己保身のためにいつもビクビクすることです。
この違いも心しなければならない事だと思います。