母が昨年亡くなり、形見分けをしました。
父が亡くなった時、私は父の時計とネクタイをもらいました。
服やシャツ等は寸法が合わず使うことが出来ません。
母の形見分けはどちらかと言うと妹たちの管轄なのかもしれません。
それでも私も形見分けとして茶道の茶碗を2個もらいました。
形見分けするというには意味があると私は思っています。
単なる財産分けではないです。
亡くなった人を忘れないためのものです。
いつも身に付けて、時あるごとにその人を思い出すためのものです。
父が使っていた時計はハッキリ言って私の趣味ではありません。
金色のその時計よりは、その前に私がしていた手巻きの腕時計の方が好きです。
でもあえて、いつも手首に巻いています。
少しシミの付いた使い古しのネクタイも使っています。
父のことを忘れなければ父も喜ぶでしょう。
そして、何かあった時、父はどう考えたのだろうかと思うことが出来ます。
父は欠点もありましたが、人間としても事業家としても尊敬していました。
ですから、何かあった時その腕時計に触ると、父の考えに立ちかえるキッカケになります。
形見を身に付けるのはそのためです。
いつも父に見られているようです。
母の形見分けは、やはり女性のものばかりで身につけるものはありませんでした。
それでもお茶碗をもらいました。
今度は母を偲ぶためにも、お茶をたててみようと思います。
2つありますから1つは自宅、1つは会社に置いておきます。
茶筅を回し、ゆっくりお茶を味わってみます。
母は生前、時々私がたてたお茶を、「お前がたてるお茶は美味しいね」と言って飲んでくれました。
やはり形見はその人を思いやる品物なのですね。