その時の題名が「悪魔の観念と経済学」です。
奇妙な題名ですが当時は真剣に書きました。
図書館に閉じこもり1カ月位かけて書き上げたと記憶しています。
この論文の大筋は
悪魔という観念を持っていた人と持っていなかった人との行動認識の違いです。
キリスト教やユダヤ教等は神と悪魔を認識する二元論です。
仏教にもお釈迦が様が悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされる魔神が、マーラ(魔羅)と言われ存在しました。
仏教が日本に伝来してきた飛鳥時代には、そのマーラの観念は入って来ませんでした。
なぜなら、日本に仏教を導入した理由は、国家統一が目的だったので、二元論なマーラの観念は必要なかったのです。
元々の日本の宗教にも悪魔の観念はありませんでした。
神道の中でそれに近いと言われるものはスサノオでしょうが、悪魔ではありません。
日本は本格的にキリストが入ってくる明治時代まで悪魔の観念が無い一元論の世界でした。
悪魔の観念が有るか無いかで何が違うかというと、起きた出来事を環境や制度が原因とするか、個人の責任とするかということです。
「貧乏な人」を例に上げれば、経済制度の問題として発生した「人」なので、社会としてそれを救済することが必要だと考えるのは二元論者。―― そこから社会保障制度の考えが生まれました。
貧乏はその本人が一生懸命働かないからだと、その「人」の責任とするのが一元論者です。
椅子取りゲームで9個の椅子を10人で争う時、椅子が9個しかないのが問題で、1人が脱落するのだと言うのが2原論者。
一生懸命勝ち取らなかったその人の努力が足りないからと言うのが一元論者です。
このブログを読まれた方の中には、この論理の展開に異論がある方も多いと思いますが、昔若い時に書いたものです。お許しください。
現在は色々な思想、思考方法があり、一概に日本人だから一元論者とは言えません。
第二次世界大戦後はそれまでとは極端に違った考え方が日本に入り込み、そう簡単ではなありません。
ただ、日本人の基調は「自分を見つめる」と言う、自分を内省する傾向はあると思います。
それが日本人の良いところであり、それが日本の活力の源だと思っています。