仕事上で人を指導をする。子供の教育をする。
人は色々な場面で教える立場になります。
その時の自分の有り様はどうなのか。
以前にブログで紹介しました潮田健次郎氏の「寝ていて人を起こすな!」の心構えが大切です。
もう一つ私の「銘肝録」書いてある文章を紹介します。
これは「がんばれ社長」の武沢信行氏が5年程前に自身のブログで紹介していた文章です。
天台宗大阿闍梨 酒井 雄哉氏が書かれた「超人の教え」に書かれています。
「正しいことは正しい、悪いことは悪いという物差しを子供に持たせることは親の責務である。
親や近隣の人に挨拶する、目上の人に礼儀正しくする。いわゆる躾と言われるものは特にそうだ。
辛く苦しいことでも、とにかくやらせる。時には叩くこともする。
焼け火箸と同じことで痛さで分からせることは最も心に残る。
言葉だけで言っても、それを実感出来ないからだ。
実感出来ないものは知識として記憶できても、行動や知恵にはならない。
ただ言うまでもないことだが、親や大人が子供を自分の感情のはけ口にしているような場合は、何の教育にもならない。
むしろ何をされようと大人の言うことなど聞くものかと思うようになり、逆効果である。
それにまつわる、ある親子の話。
子供が仏壇においてあったお金を盗んだ。
それに気付いた父親は「ならぬことはならぬ、ならぬと言え」に従い、子供に厳しい罰を与えた。
季節は真冬。庭には雪が積もっている。
息子を庭の井戸端に連れていくと『お前は人としていけないことをした。よって戒めとして、この井戸の水を十杯かけてやる。
しかし、そんな息子に育てたのは親であるわしの責任でもある。
お前に水をかぶせる前にまずわしが罰をうける』と言うやいなや、氷のように冷たい井戸水を桶で、頭から十杯かぶった。
それを呆然と見ていた息子は、途中から泣き出し自分の非を詫び責めた。
父親は自分がかぶり終わると「次はおまえの番じゃ」と言って、桶にたっぷりの水を続けて三杯、息子の頭から浴びせた。
四杯目からは、形ばかりの水の量。そして五杯でやめた。
相手を厳しく叱るとは、同時に自分自身のあり方への深い内省を伴わなくてはならない。
「子供に言う前に、親として叱るだけの事を自分が出来ているのか。自分のあり方はどうだったのか」そこには自分に向ける厳しさが不可欠である。
そうしたものがあってこそ、初めて相手に深く伝わる。単純に厳しく叱ることが愛情だということを言う人がいるが、そこのところをよく気をつけなければならない。
相手が、愛情から出た行為であることを認め、受け入れてくれなければ何の意味もない。」
私はこの文章を読む度に涙が滲みます。
自分が親から受けた恩。
そして、自分が親として子を叱る時の心構え。
また、部下を叱る時も自分はどうなのか。
考えさせられる文章です。
私は気持が落ち込んでいる時など読むと元気になれます。