北海道に生まれ育った者にとって、クラーク博士の「少年よ大志を抱け」という言葉はなじみ深いものです。
この言葉を聞くたびに胸が高まる思いがします。
特に若い時は「無限な可能性がある」という思いはしましたが、同時に無限に何もないということも知らされたように思います。
私もこの言葉を知ってから、自分の「大志」とは何かを求め続けてきたように思います。
このクラーク博士の「少年よ大志を抱け」に続く言葉があります。
「しかし、金を求める大志であってはならない。利己心を求める大志であってはならない。名声という、つかの間のものを求める大志であってはならない。人間としてあるべき全てのものを求める大志を抱きたまえ。」
となっています。
これを読むと、尚のこと大志とは何かと悩んでしまいます。
いっそ「大志」を「野心」に置き換えてもいいのかもしれないと思います。
「お金を求める大志であってはならない」とか「利己心を求める大志であってはならない」とのクラーク博士の考えには反するかもしれませんが、若い内は「野心」を持っていくべきだともいます。
そうでなければいつまでも「大志」とか「使命感」とか追い続けるだけで、何もしない人生になってしまいます。
私がそう感じたのは40歳代のなった頃からです。少し遅かったです。
「野心」を持った人は年齢を重ねても精神がいつまでも若いです。
そういう人は年を取っても老いは認めようとしません。
老いを認めた時から老いは始まるのかもしれませんん。
時のは「労害」といわれますが・・・
人は生まれた時から死ぬまで、何かをするために生まれてきました。
新約聖書の中に「われらはこの世に何も持たずに生を受け、また、何も持たずにこの世を去って行く」とありますが、死ぬ時は生まれた時持っていた肉体さえもこの世に置いて行かざるを得ないのです。
それならばこそ、この世に生れて来た意味を知って、「野心」でもいいから、何かをやって見ることが大切。
何かをして一生懸命生きて行けば、その中で心が磨かれ、「野心」が本来の「大志」に変わって行くのではないかと考えます。